海外放浪記
下記はBCCNメールの編集後記で2007年12月のBCC-285から、2010年12月のBCC-421にかけて記載した海外放浪記です。
BCC-285:海外放浪記(序章) 来年から編集後記に私の海外放浪記を書くと申し上げました。 旅が終わってから30年を迎える今、何を思って旅行記を書きたいのかといえば、 懐かしさや思い出に浸るというのではなく、当時の困難に立ち向かった気力を今 の自分にフィードバックさせ、これからの挑戦に生かしていきたいとの思いです。 来年は、私と同年齢の方が60歳を向かえ、新たな人生に踏み出される方も増え るものと思われます。それぞれの方が、それぞれの方法で挑戦されると思います が、そのエールにでもなれば幸いと思います。旅に出る背景を詳しく書いている と、それだけで半年もかかりますので、それは省略し、旅立ちの状況だけを記し ますと。 旅の目的地:スウェーデンのストックホルム 日本発、ロシア経由でスウェーデンのストックホルムまでの片道切符による団体旅 行で現地解散。私の場合は特別な最終目的地無し 所持金:上記の旅行費用が13万円くらいで、残りの所持金が7万円。 現地で稼がなければ帰国不能。旅の費用は全てアルバイトによる自力調達 旅の目的:自分が人として生まれ、何の為に生きるのかを知ること 旅行期間:目的を達成するまで
旅行開始日時:1970年6月6日 海外放浪記1.(旅立ち) 1970年の6月6日、横浜港の大桟橋からロシアの客船でナホトカに向けて出 航しました。丁度私の22歳の誕生日でした。出発前夜は氷川丸で泊まることも 考えたのですが、一円でも出費が惜しいので山下公園で野宿しました。公園には アベックがチラホラ、一方こちらは不安が一杯で、まんじりとも出来ませんでし た。夜半に雨が降り出し、モノレールみたいなものの下に避難。出航時、同乗の 人は見送りの方に別れを告げる為にデッキに出て行きましたが、見送る人もいな い私は船室のベットでごろ寝しておりました。航海時は曇ってやや時化ておりま したので、船酔い気味でベットから離れませんでした。船の食事ではロシアの固 くて酸っぱい黒パンが出てげっそりです。ナホトカからハバロスクまで鉄道に乗 り、ハバロスクからモスクワまでは空路でした。当時、モスクワには外貨を落と させる為と思われますが、強制的に二泊させられました。宿泊したのは荘重な石 作りのウクライナホテルで、各階には見張りみたいなおばさんが配置されており ました。町中に白いものが舞っており、聞いてみるとポプラの綿毛とのことで、 吹雪のようでした。
海外放浪記2.ストックホルム到着: モスクワからスワーデンのストックホルムに空路到着し、ここで団体旅行は解散 です。所持金7万円を使い切る前に何が何でも仕事を探すのが私の最大の課題で す。折角入学した大学を放り出して旅に出るからには、たとえ野垂れ死んでも親 の世話にはならない、なれないというのが旅の大前提でした。ユースホステルに 泊まりながらの職探しが始まりました。偶然であったストックホルムで既に働い ていた日本人から、自分の後釜として仕事をしないかと言われた時には、天にも 上るほどうれしかったのを覚えております。これで心に余裕が出来ましたので、 郊外のユースホステルにヒッチハイクで行きました。初めてのヒッチハイクで、 初めて止まってくれたのは、ドックハウスと呼ばれる、かなりおんぼろのシトロ エンでした。湖畔のユースホステルにはサウナがあり、サウナのあとは湖で泳い で楽しみました。
海外放浪記3.天国から地獄(1970年7月) :さて仕事をするかと、ゆったりとした気持ちで郊外のユースホステルからストックホルムに帰ってきましたら、後釜にいれてもらう話が駄目になったとのことで、ガーンとハンマー頭を殴られたような衝撃でした。そ、それはないだろうという気持ちでしたが、何も分らない国でゼロからの仕事探しをしなければならない羽目に陥ってしまったのです。世の中、そんなに甘いものではないということでしょう。 ユースホステルに宿泊しながらの仕事探しは 無理があるので、なけなしのお金をはたいて、フレミングガータン75番地にある フランス系スウェーデン人のブービエおばさんの家の貸間を借りました。早速、毎日 朝からストックホルムの街中をウロウロしながらの仕事探しです。工事現場を見ると 土方仕事は得意だと売り込んだり、サウナをみると、マッサージが出来る(何の経験もな し)と売り込んだりしましたが、さっぱりでした。夕方になると運河の側でツボルグと言 う馬のオシッコみたいな生あったかい安ビールを飲みながら、どうしてこんなに追い込まれているのに死に物狂いになれないのだろうと、ため息をつきながら、物悲しい思いで宿に帰り、悶々とした夜を過ごしました。
海外放浪記4.仕事探し(1970年7月) :そのうちに所持金が底をついてきて7千円くらいになってしまい、いよいよ野垂れ死ぬのかという感じになってしましいました。当時、ストックホルムにいた日本人旅行者が食うに困って公園の白鳥を食べてしまったとの噂がありましたが、お次は私の番になりそうで、 お金に窮した人が犯罪に傾く気持ちが分るように感じました。当時、高福祉で有名なスウェーデンで感じたのは、町の公園で年金暮らしの年寄りが集まり、昼間から酒盛りをしており、しかも貧乏旅行人の私に酒のお金をせびるので、驚きました。福祉とは、ただお金を出せば良いというものでないなと言う実例でした。仕事探しに窮した私が最後に利用したものは新聞の求人広告で、スウェーデン語の辞書を買って求人欄を探すことにしました。スウェーデンでは英語を大概の人がしゃべりますので、殆ど会話の訓練を受けたことがなかったのですが、受験英語で何とか会話が出来ました。基礎さえ出来ていれば、あとは実地訓練で会話力は急速に身につくことが分りました。
海外放浪記5. 九死に一生を得る(1970年7月末): 仕事探しを始めて二週間くらい経過し、そろそろ年貢の納め時かなと思った時、ついに仕事が見つかりました。その二週間の自分の生死にかかわるかもしれないと感じた恐怖はトラウマのように、今でも頭の中に残っております。 スウェーデン新聞の求人欄でディスカ(皿洗い)を探しているカフェテリアに電話したら面接に来いといわれ、ぶっ飛んでいきました。場所はストックホルムから30Kmほど離れた、ブロットビイと言う国道沿いの小さな村でした。カフェテリアの側の小さな小屋を宿舎にして皿洗いの仕事が始まりました。村に日本人が来たのは初めてみたいで、珍しいのか子供たちが沢山やってきました。彼らには日本も、中国も、また日本人も中国人も同じと言う感覚のようでした。ようやく心の平静を取り戻し、北欧の夏を楽しむことが出来るようになり、時間が出来るとヒッチハイクでフィンランドまで足を伸ばすことが出来ました。
海外放浪記6. 休話閑題(なぜ北欧をめざしたのか?): 1970年当時、私のようなヒッチハイクで旅行する若者たちが急増しました。それも現地に到着して日本人の多さに驚いたものです。そのような若者に非常に影響を与えた本がありました。それは、海外無銭旅行の進め、と言う本です。そこには、北欧ではアルバイトが簡単にみつかり、また北欧の美人に日本人はモテモテで、パラダイスみたいなことが書いてありました。情報の少ない時代、実際に旅行した人が書いた本なので説得力があり、100%とは言わないまでも、かなり事実だろうと考えて旅立った人は沢山いたはずで、私も影響を受けた一人でした。しかし、現実は全然異なるもので、こんなはずではと叫んでも、誰も責任は取ってくれないのは当然のことでした。ストックホルムで有名なノーベル賞の受賞会場にあたる広場には沢山の日本人の若者があふれていました。そして、少ない皿洗いの職場を必死で探しまわるわけで、これでは仕事が見つかり難いわけです。一冊の本が、こんなにも影響を与えた時代があったのですね。
海外放浪記7. スウェーデン、フィンランド旅行(1970年秋) :北欧にビザなしで滞在できる期間は、当時は三ヶ月とされており、長い冬が来る前に北欧を出ることにしました。ストックホルムで知り合いになった三重県出身の友人がフィンランドのペンフレンドを訪問するということで、スカンジナビア半島をヒッチハイクで北上し、陸路フィンランドに向かうことにしました。旅の途中、夕方になり雨が降り出してきました。ユースホステルも何もない場所なので、野宿しなければならなくなりました。 友人は登山家だったのでテントを持っておりましたが、私は寝袋以外はないので困っておりましたら、道路の側の家の方が、あいている小屋を貸してくれることになり、助かりました。翌朝は朝食まで頂き、感謝して別れを告げ旅を続けました。北欧の秋は夜が早く訪れ、寒くなってきましたので、早く南下したい気持ちが強くなって行きました。スウェーデン人よりフィンランド人の方が日本人に親切なので理由を聞きましたら、フィンランドがロシアから独立できた理由の一つにシベリア戦争があったことを聞かされました。日本との戦争が長期化したので、シベリア方面への軍隊派遣を増強する必要が出来、フィンランドとの紛争を早期に決着させる必要が出来、独立できたとのことでした。
海外放浪記8. デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー旅行(1970年秋): フィンランド旅行が楽しくてスカンジナビア半島に三ヶ月滞在できる期間を若干オーバー してフィンランド、デンマークを経由してドイツにたどり着きましたが、このことが翌年になって思いがけないトラブルの原因になるとは夢にも思いませんでした。現在のドイツの状況はしりませんが、当時のドイツには日本人の男性旅行者を魅了するものがあり、青春のエネルギーを爆発させる日本人が沢山おりました。貧乏人の私は足早にドイツからオランダに向かいました。オランダのロッテルダムで泊まったユースホステルにインドネシアから移民した婦人が働いており、自宅に招待され親切にしていただきました。やはり同じ東洋人ということで、親近感があったようです。別の日にはオランダ領キュラソー出身の黒人の方の車に乗せていただきました。そして彼から三島由紀夫が防衛庁に乗り込んで自刃したことを聞いて驚きました。ヒッチハイク中の食事はパンにケチャップをつけたものが主で、ハムとかアンチョビーを乗せた豪華版は、たまにしか食べませんでした。コンビニもなく、食料品店は夕方には早々と店じまいしてしまいますので、予備の食料を買っておかないと空腹に悩まされることになります。
海外放浪記9. イギリス入国(1970年11月) ベルギーのオステンドからフェリーでドーバー海峡を越えイギリスに入国しました。 入国審査官は、表面はにこやかに挨拶しながら、貧乏旅行者の荷物をにこやかさとは裏腹 のさめた目で徹底的に調べましたので、なるほど、これが英国流かと納得させられました。 ロンドンへのヒッチハイクではホモのトラック運転手に言い寄られ、私は結婚しているの で妻を裏切ることは出来ないなんて、分けのわからない言い訳で断ると早速降ろされて しまいました。ロンドンに到着して早速仕事探しにかかりました。まず電話のかけ方が 分らないので電話ボックスからでてきた人に聞いたところ、偶然にも私が話しかけたのはレストランを退職したばかりのレバノン人で、親切にも自分が退職したレストランに私を案内してシェフを紹介してくれました。ロンドンに到着してあっと言う間に仕事が決まり、 ストックホルムでの苦労を考えると、人生は先が見えない世界だなとしみじみと感じました。新しく見つかった職場はロンドンのど真ん中、ピカデリーサーカスの一角にある、 ミスターフォグ(霧)という、なかなか立派なレストランで、私の仕事は皿洗いではなく、キッチンポーターという料理で使用した鍋、フライパンなどを洗う仕事でした。
海外放浪記10. イギリスでの生活(1970年11月) 10時くらいにレストランに出かけ、一旦午後2時ころ帰宅し、また5時すぎにレストランに出かける生活が始まりました。日本人の知り合いもいませんので、まったく英語だけに囲まれた生活で、語学を学ぶには最高の環境でした。それでも、ロンドンの下町言葉(クックニー)は分かり難くてこずりました。受験英語勉強で語彙は豊富ですから、普段 イギリスのコックさんなど使うことのない難解な言葉を使いますので、不思議がられました。私がイギリスで学んだことは二つあり、一つは英語で、もう一つは被差別の体験です。 最近の日本人は被差別の経験を殆どしたことがないと思いますが、表には出ませんが、英国人の中には明確な日本人に対する差別的意識を持った人が、かなりいることを実感しました。夕方裏通りを歩いていて暗闇から投げつけられたジャップと言うことば、またレストランで理不尽な要求を突きつけられた時は、悔しさと憤りで眠れないこともありました。 そこで決心したことが一つあります。それは差別を絶対に許さないということで、逆に自分も絶対に人を差別しないことを決意し、それは現在まで続いている私の強い信念です。 休日には日本語が懐かしくなり、日本領事館に行って日本の新聞を読んだりしました。ある日、領事館で英語の字幕が出てくる黒澤監督の椿三十郎を始めてみることが出来ました。海外で日本の映画を観るのは不思議な感じがするものです。領事館の人気メニューはNHKの紅白の模様を録画したものだそうで、長年英国に滞在している日本人にとっては、いつになっても故郷が懐かしいのですね。
海外放浪記11. イギリスでの生活2(1971年1月) クリスマスはにぎやかですが、イギリスの正月は静かで休日もありませんので、お餅も何もない寂しい正月をむかえました。イギリスにノービザで滞在できるのは三ヶ月だけでしたので、そろそろ旅立ちを考えなければならなくなり、イギリスの後はスペインに行くことにしました。私のような貧乏人は働きながら旅をしておりますが、当時でも沢山の日本人が語学勉強のためにイギリスに渡ってきておりました。お金をかけずに勉強したい人はオペアと言うイギリスの家庭に宿泊し、子供の世話や家事を手伝う仕事をしておりました。 家主にこき使われるので逃げ出したいが、そうもいかないのでと悩みを打ち明けられたこともありましたが、オペアは郊外や地方が多いようで、ロンドンではあまり出会いませんでした。私の語学勉強は完全なOJTスタイルでしたが、滞在期間が三ヶ月近くなってくると自然に日本語でものを考えてから英語をしゃべるのでなく、英語で物を考えることが出来るようになりました。これは完全に日本語から隔絶された生活をおくっているから身に付いたようで、それは現在でも残っております。語学勉強の場合、周りに日本人がいない環境に身をおくことが有益のようです。
海外放浪記12.交通事故(1971年2月14日) スペインに旅立つ丁度一週間前くらいに、レストランのコックさんが主催するバレンタインパーティーに誘われました。楽しいパーティーで、普段から大好きなアルコールをたっぷり頂きご機嫌で長居してしまい、地下鉄の最終便にギリギリになってしまったので、慌てて地下鉄の駅に向かって駆け出しました。地下鉄への近道をと言うことで道路を駆けていたところで記憶が途絶えており、翌朝目が覚めると病院のベッドの中でした。道路に飛び出し、車に撥ねられ両足骨折でした。だれが連絡したのか日本領事館の方が訪れてきて日本の実家に連絡するかと聞くので、命に別状もないので、知らせないで下さいと伝えました。担ぎ込まれた病院はテムズ川に面して対岸にビッグベンが見えるセントトーマス病院という大きな病院でした。当たり所が悪ければ私の人生は、そこでおしまいになっていたことでしょう。人生とは、一寸先は何も見えない世界だと感じました。現在のイギリスの事情は知りませんが、私が旅をした当時、イギリスでの病院の入院費は怪我人が外国人でも国が払ってくれましたので、良い国で事故にあったようでした。
海外放浪記13.交通事故Ⅱ(1971年3月) イギリスの病院での生活(?)は日本人が珍しいのか、若い看護婦が何かと話しかけてくるので意外と楽しく過ごしました。英語のRとLの違いをトレーニングされたり、日本の情報を話したりして会話力が、かなり上達しました。レストランの仕事を引き継ぐことを希望していた日本人が病院に見舞いにきてくれたので、私の部屋の鍵を渡し部屋においてあるイギリスで稼いだお金を持ってくるように頼みました。ところが、なかなか彼が顔を出しません。一週間くらいしたころ、暗い顔で病院に現れ、お金を回収した後に、後ろポケットに財布を入れてパブで飲んでいて財布を掏られてしまったとのことで、またも降りかかる不運に私は言葉を失ってしまいました。彼を責めてもお金が戻るわけもなく、いつか返してねと話すしかありませんでした。結局彼からは私が日本帰国後、お金を送金していただきましたが、お金の価値の意味が全然違うわけで、その後私の旅行生活を圧迫する大きな要因となってしまいました。イギリスの交通事故手術では日本のように金具で固定して、後に金具を取り出す方法ではなく、金具を残す方法だったので、私の足にはコバルト合金が今でも入っています。
海外放浪記14.病院生活(博愛と愛情)(1971年4月) イギリスの病院の日曜日はお休みで、お見舞いの人が患者を訪問する日でした。当然、旅行者の私には、だれも訪問するわけがないのですが、ある看護婦さん(イザベラ)が見舞にやってきてくれました。他の患者には見舞い客があるのに、貴方にはだれもこないので、私が来たのよとのことでした。イザベラは歌謡曲にでてくる“みよちゃん”のような感じの看護婦さんでした。その後の展開も、また“みよちゃん”の歌詞のような展開となりました。三週間の病院生活を終えアールスコートにあるフラットに戻り、リハビリ生活を始めましたが、イザベラのことが頭から離れなくなり、長い長い恋文を書きました。考えてみれば旅の中で事故にあい、精神的に落ち込んでいた若者が、優しくされたことにより恋心を抱くのは当然のながれかもしれません。でも私は大きな間違いをしていたのでした。イザベラの親切は博愛精神からくるもので、愛情とは意味が違ったのです。イギリスには確実にナイチンゲールの精神が生きていたのですが、博愛精神の希薄な日本に生まれた私には、博愛精神の感覚は分り難かったのです。彼女からの返信のなかで、婚約者がいることを知らされて悲嘆にくれ、そして泣きました。三日三晩くらい泣きましたら、四日目には気持ちの切り替えが始まりました。日本人の男性は泣くことを恥と考えるようですが、思い切り泣くことができれば、精神障害に陥る率は確実に減少するはずと確信しております。その後、イザベラから、貴方がそんなに落ち込むのは忍びないと、彼女の実家を案内してもらったり、映画をみたりしましたが、それは癒えはじめた傷が、また痛むような感覚のものでした。そろそろイギリス脱出です。
海外放浪記15.イギリス脱出(1971年6月) 交通事故からの回復は非常に順調で、退院後は松葉杖をつくこともなく歩行することができました。イギリスの交通事故では、当事者が直接会うことはなく、保険会社と訴訟代理人(ソリシター)の間で慰謝料などの交渉が行われるとのことで、結局、日本に帰国後、慰謝料が送金されてきました。しかし、その時点では折角レストランで稼いだお金を日本人の知人が掏られてしまったので、所持金も少なく、また仕事を探さなければならない状態でした。前年に働いたスウェーデンのカフェテリアを辞める際、翌年の初夏に再訪して仕事をさせていただく話が出来ていましたので、ともかく急いでスウェーデンに向かうことにしました。ベルギー、オランダ、ドイツを経由し、デンマーク国境に到着しました。ここで前年、北欧三国にノービザで滞在できる三ヶ月をオーバーして滞在したとの理由で入国を拒否されてしまいました。もし私が日本帰国の航空券を所持していれば入国は許可されたようですが、購入の資金もないし最初から帰国の時期も未定の私は、すごすごと国境を後にするしかありませんでした。でも、スウェーデンには荷物も残してあり、仕事の約束もありましたので、何が何でも国境を越えなければならないと覚悟を決めました。
海外放浪記16.国境越え(1971年6月末) 私が選んだ国境越えの手段は国境やぶりでした。勿論、違法な手段ですが当時の私には、我に正義ありとの不遜の思いがあり、どんな法律があろうと目的は達するというもので、たとえ見つかってしまっても交通事故のことを話せば何とかなるだろうという、かなり乱暴で無鉄砲なものでした。国境線に到着し、夕暮れを待ちました。国境地帯には柵があり、柵の先は数百メートルの身を隠すものなど何もない中間地帯の草地でした。柵を乗り越えリュックザックを引きずりながら身を低くして草地をデンマークの方向に進みました。その時のヒリヒリするような感触は今でも鮮明に記憶しています。そして、とうとうデンマーク側の柵を越え、国境地帯の森で野宿しました。翌朝、偵察のために歩いているところを、国境警備員に見つかってしまい、色々悪知恵を総動員し粘ってみましたが、結局国外追放者として再びドイツ側に戻されてしましました。その後10日くらいしたころ、私は再びストックホルム郊外のカフェテリアに到着していました。どんなマジックを使ったかについては、秘密としておきましょう。
海外放浪記17.スウェーデン郊外(1971年7月) 何とかカフェテリアにたどり着きましたが、私の到着が遅れたために、スベイン人二名プラス、ペルー人一名の三人組が既に皿洗いの仕事をしておりましたが、経営者の好意で、私はカフェテリアの外の仕事にさせて頂きました。今度はなれて余裕がありますので、時間が出来るとヒッチハイクで大好きになったフィンランドに何回も行きました。同じ北欧といっても人種も違うせいか、スウェーデン人のすました感じとは異なり、フィンランド人の人懐っこさが好きでした。当時の北欧はアルコールとタバコには非常に高い税金がかかっていたようで、タバコは500円以上でした。そしてアルコール度数の高い酒は普通のお店にはおいてなく、週に一回特別な場所で販売されており、購入の際は身分証明書の提示を求められました。北欧の夏の夜は日がなかなか暮れないので、スベイン人たちと楽しく夜長を楽しみましたが、やはりラテン人の明るさは天性のもののように感じました。楽しい時を過ごしていても、自分の旅の目的を思うと、何の手がかりさえつかめていないことに焦燥感を覚え、また旅にでなくては思うようになりました。 海
外放浪記18.ブレーメン(1971年9月) スウェーデンを出て、またヒッチハイクの旅を再開しました。旅行中の宿泊はユースホステルか、野宿です。野宿は小さなエアーマットの上に寝袋を引いて道路わきの林を探してするのですが、風のガサガサいう音でも目が覚めてしまい、なかなか安眠できません。公園で野宿していて持ち物を全部取られてしまった日本人にも会いましたので、人目につく所での野宿は避けました。ユースホステルは学生だと学割で格安に宿泊できるだけでなく、旅の様々な情報交換の出来る場所で、情報収集には非常に便利な場所でした。ドイツのブレーメンで宿泊したユースホステルに仕事があるとのことで、暫く手伝うことにしました。 ブレーメンはブレーメンの音楽隊で有名なところですが、古くて落ち着いた雰囲気の街でした。しばらくすると市内の中国レストランで皿洗いの仕事があり、そちらの方が賃金が高いので、移ることにしました。中国レストランで働く楽しみは中華料理が毎日食べられることで、結構美味しい味でした。モヤシは現地で入手が難しいようで、レストランの地下室で栽培しておりました。世界各地を旅しても、どこにでも中華料理レストランを見かけましたが、彼らは中国人だけで団結しているようで、レストランで働いている中国人の方たちとは、どうも馬が合わない感じでした。日本人も日本人だけで群れる癖があるように感じます。
海外放浪記19.ブレーメン(1971年9月) この時期、久しぶりに沢山の日本人旅行者と接触しました。その中で日非常に印象が残っているのが海上自衛隊に勤務していた人です。彼は南極越冬隊のメンバーから外れたのを機に退職し、旅行に出たとのことでしたが、大学生が大嫌いな右翼思想の持ち主でした。私はラディカル思想のものですから、彼とは馬が合わないと思われましたが、結局、右翼でも左翼でも、国を想う強い気持ちと言うベースが共有できれば、よき友達になれるようで、彼の床屋をやってあげたり、一緒に酒を飲んだりして親しく交流しました。旅行者の中には金を稼ぐ手段として針金を細工した首飾りなどを繁華街の路上で売る商売をしている日本人もおりました。そこで驚いたのはドイツの警官の乱暴なことです。路上販売は禁止されているようで、警官が取り締まっているのですが、見つかって捕まると、まず問答無用で警防でポカポカ殴られます。ですから警官を見ると“ポリツアイ”と仲間に大声で知らせ、売り物をかき集めて雲の子を散らすように逃げ出すわけです。見学していた私なども、とばっちりを食わないように一緒に逃げ出すのですが、警官を見ると恐怖感に襲われるようになってしまいました。国内でもデモのときに機動隊から散々小突かれましたが、まさかドイツで警官から逃げるとは思いませんでした。
海外放浪記20.チューリッヒ(1971年10月) ブレーメンに秋が訪れるころ、南下を始めました。ドイツでのヒッチハイクはアウトバーンの入り口で車を待つのですが、一旦アウトバーンに入ってしまうと車は猛烈な勢いで走りますので、すごく距離を稼ぐことが出来ます。古いベンツに乗せてもらった時に200Km以上のスピードで走るので、凄い凄いと言っていたら調子にのってオーバーヒートさせてしまいました。そして瞬く間にスイスのチューリッヒに到着しました。早速、ユースホステルで仕事を探したところ、直ぐにホテルのレストランの皿洗いの仕事が見つかり、ホテルの従業員宿舎に住み込んで毎日ホテルに通いました。ホテルには日本人のシェッフが二人働いておりましたが、二人ともドイツ語を学んで流暢に話しますし、仕事熱心な方でした。でも、私とは住んでいる世界が違うようで、あまり親しくは付き合いませんでした。皿洗いの同僚はイタリア人で、こちらは陽気な連中でした。夕暮れに宿舎に帰る道には街娼がポツン、ポツンと立っていました。勿論、先方もプロですから、私の財布の中身をお見通しのようで、一回も声を掛けられたことはありません。休日には登山電車に乗ってユングフラウヨッホに出かけ、アイガー北壁を見に行きましたが、スイスの自然の美しさは本当に絵に描いたように鮮やかでした。
海外放浪記21.チューリッヒ出発(1971年11月) 旅に出てから約一年半が経過し、ヒッチハイクと皿洗い生活をこのまま続けていても旅の目的を達成することは難しいように感じ、とりあえず日本に帰国しようかと考えました。幸い、何とか陸路であれば帰れるくらいのお金は稼ぐことが出来たので、10月31日にチューリヒを出発しました。目的地はイタリア経由でギリシャに渡り、陸路をインドまで行く予定でした。スイスでのヒッチハイクは順調でしたが、イタリアに入るとなかなか車が止まってくれなくなりました。女性のヒッチハイカーだと、即座に乗せてくれるのですが、男には冷たいお国柄です。ジェノア郊外で丸一日たっても車は止まってくれず野宿となりましたが、11月になると夜は冷え込み、おまけに雨まで降りはじめ、翌日はヒッチハイクをあきらめ、鉄道でジェノアからローマを経由してバーリまで行きました。バーリからフェリーでアテネに向かいました。フェリーでは船室などを取る余裕がありませんので、デッキに寝袋で寝ることにしました。ギリシャに到着し、早速ユースホステルを探して宿泊し、イランのビザを申請しました。ビザを取得するのに数日かかるとのことで、ただ待つのももったいないので、出会った日本人と一緒にミコノス島へのエーゲ海クルーズ行くことにしました。ミコノス島は全島が漆喰の白一色の綺麗な島で、名物らしい大きなペリカンがゆったりと道を歩いておりました。
海外放浪記22.ギリシャートルコ(1971年11月) ようやくイランのビザを入手し、アジアハイウェイをインドに向けてバス旅行に出発となりました。中近東をヒッチハイクした侍もいたようですが、男が強姦されたとの話もあり、同じ方向に向かう日本人6人(立教、関西学院、神戸大=空手部、東京下町人、福井のアンチャンと私)で集団を組みました。最近は日本人拉致の事件が多いですが、事件を避けるためには、集団は有効です。イスタンブールからトルコに入国しました。イスタンブールには飾り窓の家があり、飢えたようなアラブ男性が熱い目で女性を見つめておりました。アンカラを経由してエルズルムに到着しました。エルズルムは、かなりの高地で寒さが身にしみました。現地での休息時間にはチャイという非常に甘い紅茶を飲みましたが、非常に美味しく感じました。エルズルムからさらに進んで国境の町、ドクバヤジットに到着しました。ここからはノアの箱舟で有名なアララット山が望むことが出来ました。
海外放浪記23.イラン~アフガニスタン(1971年11月) イランに入国して砂漠が見られるかと思いましたが、日本でイメージするような砂丘のある砂漠は全然なく、ただ石がゴロゴロしている岩山みたいな土地が延々と続いておりました。バスは一日3回メッカに向かって礼拝する為に停車しますが、我々はボーと礼拝が終わるのを待っているわけです。アラブの人は愛想が少ないですが、イランでは特に無愛想で、女性は黒いチャドルで顔を隠しており、またあまり外に出ないようなので、非常に殺風景は印象でした。当時はパーレビー王朝時代で、町々には国王の写真がベタベタはってありました。テヘランは、盆地にあり、当時でもスモッグがひどく、空気の汚れた都市という印象でした。テヘランに一泊して、直ぐにイスラム教の聖地であるメシェッドに向かいました。そして、メシェッドから、いよいよアフガニスタンに向かいました。アフガニスタンに入国したのは夕刻で、国境から山岳地帯にむけて坂道をバスが上っていくのですが、バスの中が煙につつまれて何か変な匂いがします。それはアフガニスタン人の乗客がハシシ(マリファナ)を吸っているからで、当時のアフガニスタンではハシシは禁止されていなかったのです。
海外放浪記24.アフガニスタン入国(1971年11月) アフガニスタン国境に向かうバスで印象に強く残っているのは、星への距離の近さです。非常に澄み切った空気の中を高地に向かう訳ですから、本当に星に手が届きそうな感じで、 瞬く星がとても大きく輝いて見え、一方社内はハシシの煙の中で乗客は静まりかえっておりますので、何か幻想的な感じがしました。夜、アフガニスタンの国境の町であるヘラートに到着し宿泊しました。ところが翌朝から私は強烈な下痢に襲われました。同行した日本人は生水に気をつけていたのですが、私は委細かまわず出てくる生水をグイグイ飲んでおり、それが原因でした。正露丸など全然役立たず、水を飲んでも直ぐに下痢ででてしまい、これはやばいかなと言う感じでした。丸二日、同行者を足止めしてしまいましたので、 三日目は、私だけを残して出発してくれと言うことになりましたが、何とか下痢が収まり、フラフラしながらバスに乗ることが出来ました。でも、それ以降は、各地の生水をいくら飲んでも下痢をしなくなりましたので、体内に抗体ができたのでしょうが、無鉄砲な私の性格が出た事件でした。
海外放浪記25.アフガニスタン入国Ⅱ(1971年11月) アフガニスタンは三角形をひっくり返したような形で、左の頂点がヘラート、下の頂点がカンダハル、右の頂点がカブールとなっており、アジアハイウェーが、この主要都市を結んでおります。直線で行けばヘラートからカブールにいく道があれば早いのでしょうが、 そこは山岳地帯で、ヘラートとカブールの中間くらいに仏教遺跡で有名なバーミアンがあります。民族的にはアラブ系とアジア系が混在しているようですが、食料や職人的な部分はアジア系、牧畜部分はアラブ系が多いようです。アラブ系の男は仕事もしないで群れていることが多い印象でした。彼らは骨董品市場で高値がでるかと思われるような旧式の鉄砲を大半が持っており、我々旅行者には、冷淡なまなざしを投げかけるだけです。あまり居心地の良い所ではないようなので、パキスタンのビザを入手すると、そそくさと国境地帯に向かいました。国境地帯はカイバーパスと呼ばれる峻険な山岳地帯で、細い山道がウネウネと続いております。アレキサンダー大王の時代から、様々な歴史が刻まれた場所かと思うと景色も若干異なって見えました。国境の町がジャララバードで、最近、日本人青年が殺害されましたたが、国境は当時も何か険悪な印象でした。
海外放浪記26.パキスタン入国(1971年12月)第三次印パ戦争 アフガニスタンからパキスタンに入国し、ペシャワールを経てインドへの旅を急ぎました。国境に近いラホールに到着した時、夕方だったのですが、一気にインド国境を越えようかと言うことになりました。でも、その時我々のグループに合流した日本人グループに体調不良の人がいたので、越境を翌日に延期しました。それが運命を分ける一日になるとは夢にも思いませんでしたが、その夜、第三次印パ戦争(1971年12月3日)が勃発し、国境は閉鎖されてしまいました。お金に余裕があればカラチからテヘランに飛行機で飛び、そこからインドでも、どこへでも行けるのですが、当時の航空券は非常に高価で、とても我々には負担できる金額ではありませんので、やむを得ず一旦アフガニタンに戻ることにしました。我々は新聞も読めないアラブ世界におり、当時の国際情勢にも疎く、東パキスタン(現在のバングラディッシュ)の独立問題でインドとパキスタンの関係が険悪であったということを後で知ったわけです。イスラマバードでアフアニスタンの入国ビザを申請している時、イスラマバードの上空にインドの偵察機が一機現れ、それに対してパキスタン軍が迎撃機を出し、上空で一騎打ちが始まりました。結局インド機が撃墜されたようで、市民が拍手をしておりましたが、まだのどかな戦争風景でした。
海外放浪記27.アフガニスタン再入国(1971年12月) パキスタンから再びアフガニスタン入国し、カブールでインドへ行くことが出来る時を待つことになりました。長期戦になるかもしれませんので、生活費を切り詰める必要がありました。アフガニスタンを選んだ最大の理由は物価が非常に安いことでした。大部屋に10人ほどの日本人が集まり集団生活が始まりました、宿泊代は多分日本円で一泊200円程度だったので、あとは食費を如何に安くあげるかです。カブールは高地にあり寒いので部屋にはストーブがありますので、ストーブに寸胴のナベをかけ、米と野菜を入れて煮た雑炊のようなものを主食にしました。当番を決めて毎日市場に野菜の買出しに出かけます。 味付けは味噌がありませんので、中国製の醤油(大同とかいうブランド名でした)を使いました。朝食は市場でナン(現地ではチャパティといってました)を買って済ませました。三食昼寝付の生活で一日の総出費は400円前後だったと思います。もし物価が高ければ所持金の少ない私は兵糧攻めで討ち死にしていたかもしれません。アラブではアルコールを売っていませんので、夜は好みによりハシシを吸う人やゲームをする人など、とりどりです。日本では大問題になりますが、当時のアフガニスタン(今も同じかもしれませんが)ではハシシが禁止されていない数少ない国なので、ハシシを目的に沢山の欧米のヒッピーが滞在しておりました。ハシシにもブランドがあり、ロシア国境に近いマザリシャリフが名産地として有名でしたが、後にロシア軍がアフガニスタンに侵攻した後、その地名は虐殺などで世界に知られました。
海外放浪記28.アフガニスタン脱出(1972年1月) カブール滞在も一ヶ月になろうかという新年になり、カラチからボンベイへの空路が開いたようだとのニュースがありました。カブールでも英字新聞は入手できるので、ニュースは殆ど欧米の旅行者が頼りでした。早速ペシャワールに向けて出発しましたが、ジャララバードの国境は閉鎖されており、しかたなくカンダハールからクエッタに抜ける国境を目指すことになりました。カンダハールに向かうバスの中で、突然からだがブルブル震え始めました。とても寒く歯がガチガチ言うのですが、ここはイギリスでなくアフガニスタンで病院があるかも分りませんから、これはやばいかなと思いましたが、どうすることも出来ません。ともかく体を丸くして二時間ほど耐えていましたら、何とか悪寒が薄れ助かりました。とても小さな国境を越えてクエッタに到着しました。国境では厳しい大麻(ハシシ)の取り締まりがあり驚きました。クエッタからパキスタン最大の商業都市であるカラチに到着しました。カラチはアルコールも売っているし、売春宿まであり、とてもイスラムの国とは思えない開放感(?)あふれる港町でした。ボンベイへの飛行機はアラブの小国の小さなプロペラ機で、スチワーデスとして乗っていた女性は王族のようで、何のサービスもせずにただ座っているだけでした。プロペラ機は低い高度をヨタヨタと飛びますので、ヒヤヒヤものでしたが、何とかインドのボンベイに到着することが出来ました。
海外放浪記29.インド入国(1972年1月) 一ヶ月遅れで漸くボンベイ(現在のムンバイ)に到着しました。ボンベイの印象は非常に立派なイギリス風の近代的な建物が立ち並ぶ整然と区画された近代都市に、路上生活者があふれているという、非常に文明と貧困が対比した、ある面でインドを象徴しているような都市でした。ボンベイからニューデリーに向けて列車で出かけましたが、インドの列車のすごさに驚かされました。貧乏旅行者は一番安いチケットですから、満員ギュウギュウで身動きができないような列車にインド人に囲まれての旅行です。途中、アジャンターの石窟寺院やタージマハールを見学しました。私し自身は歴史的な遺跡などに、あまり興味がないのですが、同行する連中が寄ろうと言うのでついていったわけです。現在のタージマハールの状況は知りませんが、当時はあまり綺麗に手入れが行き届いておらず、薄汚れた印象でした。
海外放浪記30.インド(1972年1月) ニューデリーで日本に帰る手配をしました。日本語を話すチャダ(茶田)というインド人に頼みことにしましたが、少しぼられたみたいでした。後に、このチャダが日本のテレビに出ていましたので驚きました。ギリギリの旅費しか持っていなかった私は、アフガニシタンでの一ヶ月の滞在が響いて、カルカッタから日本に帰る飛行機代が支払えないので、香港までのチケットにしました。ニューデリーからヒンズー教の聖地ベナレス経由でカルカッタまで鉄道旅行することにしました。インドで一番悩まされたのはバクシーシ(喜捨)といって追いかけてくる沢山の子供の物乞いです。ともかく我々は逃げまわるのですが、それだけでくたびれてしまいます。多様な民族、多様な言語、多様なカーストとインドはなかなか理解の難しい国ですが、人間のエネルギーを感じさせる国ではあります。満員でギュウギュウの列車のたびですが、インド人が何かと話しかけてきますし、駅に到着しますと一杯1円くらいのチャイ(紅茶)売りがやってきまして、とてもにぎやかな旅でした。 町には牛がゆっくり歩きまわり、その糞は乾燥させて燃料にするようで糞を回収する子供がいました。インドで驚いたのはインド人の男性が立小便をしないことで、彼らはしゃがんで済ませるのですが、色々な文化があるものだと感心しました。
海外放浪記31.ベナレス、カルカッタ(1972年1月) ヒンズー教の聖地であるベナレスで下車し、ガンジス川に向かいました。ここも眼病や片足の沢山の子供の物乞いにバクシースの声で追いかけられまくりました。ガンジス川では一方では葬式をして火葬した灰を川に流し、傍らで沐浴する人や口をすすぐ人がいたりで、衛生観念など吹き飛んでしまいそうです。インド人のターバンは、その色などで職業や宗教などが分るようですが、あの暑い国で頭が蒸れないものだと感心してしまいます。インド人の英語は非常に特徴がありますが、慣れればロンドン下町のクックニーより、よほど分り易いことがわかりました。インド最後の地はカルカッタ(今はコルカタというらしい) でした。町は雑踏の町という印象で、赤茶けた砂っぽい印象が残っているだけです。インドは雨が少ないので路上でぼろきれにくるまって寝ている人を沢山みましたが、それほど悲惨な顔をしていない感じでした。そしてついに飛行機でバンコク経由、香港に出発となりました。同行した日本人は、私以外は日本まで行くのですが、私は飛行機代が足らなくて香港までの切符しか買えませんでした。
海外放浪記32.香港、台湾(1972年2月) 香港に到着し、早速バックパック旅行者が集まる安宿を探して宿泊することにしました。 インドで長野の実家に香港の東京銀行宛に3万円送金するよう依頼する手紙を出しましたが、あとで聞くと実家では海外送金などやったことがないので大変だったとのことでした。 その後は毎日銀行に行って送金の到着を待ちましたが、なかなか届きませんのでノービザで滞在できるギリギリの日が明日という日になってしまいました。銀行の窓口で、もし送金が届いていて私への通知が遅れることになったら損害賠償だと騒いでいると、やっと送金が届いたとの知らせがあり、何とかオーバーステイのトラブルは回避でき、香港から台湾に出発することが出来ました。台北で一泊してから列車で基隆に向かいました。基隆からは琉球海運のオンボロ貨客船で日本に返還前の沖縄にむかいました。沖縄に到着する前には石垣島で途中帰港し荷物の積み下ろしがありました。石垣島では白い砂とエメラルドグリーンの海の色が印象に残っております。港では牛を積み込んでおり、のんびりした気分味わいました。
海外放浪記33.日本帰国(1972年2月) 日本に返還される前の沖縄に到着し、一泊することになったのでユースホステルを探して宿泊しました。入国スタンプには琉球政府と英語で書かれており、沖縄の言葉も分らないので異国にいる気分でした。翌日は乙姫丸という日本の船にのって沖縄から鹿児島にむけて出航しましたが、海が時化ており、一晩中船酔いに悩まされました。2月9日、やく2年ぶりに日本に帰国しましたが特別な感慨もなく、まだ自分の旅が終わってはいない感じがしました。列車に乗って大阪に向かい、大学の寮にたどり着きましたが、自分が残しておいた布団は誰かが使っており、特に帰国を歓迎されるわけでもなく居心地の悪さを感じました。大学に行ってみますと大学紛争の跡形もなく、自分が浦島太郎になってしまったように感じました。生活費を稼ぐために早朝、西成の釜ヶ崎に出かけて日雇いの仕事で生活費を稼ぎながら自分の将来について悩みました。大学への復学も何回も考えましたが、大学に復学することが自分の二年間の旅を否定するように感じ、なかなか決心がつかないまま、大学の寮に居候状態で時を過ごしました。結局、1972年の12月に日本を再出国するのですが、その間の記憶が殆ど残っておりません。
海外放浪記34.日本滞在(1972年3月~) 大学への復学を考えて大学に行っても二年間のブランクの間に同級生は皆進級し、そろそろ就職活動をしている時期で、行き場が無い感じでした。今考えてみれば、語学がいかせる仕事でもしたら良かったのかもしれませんが、ただ悶々としておりました。大学を中退する決心は親への申し訳なさで、なかなか踏ん切りがつきませんでした。しかし、いちご白書をもう一度の歌詞(僕は無精ヒゲと髪をのばして学生集会へも時々出かけた、就職が決まって髪を切ってきた時もう若くないさと、君に言い訳したね)のような気持ちにはとてもなれない、それはあまりにも自分の信念に反する行動だと感じ、やはり再び荒野を目指そうと決心しました。しかし、そう決心しても大学を辞めることへの抵抗感が根強く頭に残っているようで、何回も大学に復学する夢を見ました。年末になり先輩からタイに知り合いがいて以前英語が出来る日本人を探していたよとの情報を得ました。何か行き詰っており、行動のきっかけを探していましたので、手紙を出して情報を確かめようともせず、いきなりタイに出かけることにしました。
海外放浪記35.タイ出国(1972年12月) 年末にまず香港に到着し、タイのビザを取得してからバンコクに到着しました。早速先輩から紹介された会社を訪問しましたが、現在は人を募集していないと断られてしまいました。さーどうしたものか?ともかくタイで何か仕事がないか暫く滞在することにしました。当時、お金には若干余裕がありましたが、それはイギリスでの交通事故に対する慰謝料30万円ほどが日本に帰国後送金されてきたからでした。現地の人と友達になりタイボクシングの見学をしたりして遊んでいる内にビザの滞在期限である一ヶ月をオーバーしそうになったので、とりあえず一回タイを出国してビザの再取得をする為にラオスに行くことにしました。バンコクから列車でウドンに出発しました。ウドンのあるタイ東北部はタイでも非常に貧しい地域のようで、ウドンから国境の町ノンカイに向かいました。ノンカイではフェリーでメコン河を横断してラオスに渡るのですが、河がにごっており大河という感じでした。ラオスの首都であるビエンチャンに入国して感じたことは、タイより相当貧しい国という感じで、ホテルなども数が少なく私が泊まったのは掘っ立て小屋のような宿でした。ビザを取得する間、町をブラブラしましが、町の市場では大きなネズミのような姿の見たことも無いような動物の肉などを売っており、物価は非常に安いので助かりました。
海外放浪記36.ビエンチャン(1973年1月) 当時は、まだベトナム戦争まっさかりの時代で、ビエンチャンでベトナムから逃れてきた二人のベトナム人の青年と出会いました。英語をしゃべっていましたんで、上流階級の出身かもしれませんが、ただブラブラと戦争が終わるのを隣国で待っている生活をしていました。彼らとのことで記憶に残っているのは、火吹き竹のような太い竹を利用した水パイプでタバコを吸わせてくれたことです。どんなタバコか分りませんが、何か幾つものタバコの葉を混ぜて細かく刻んだもので、それを思い切り吸えというので吸い込んだら、目の前が真っ暗になり頭がボーとしてフラフラ状態になってしまいました。もしかすると、最近日本で問題になっているものが混ざっていたのかもしれません。その内にタイのビザが取得できましので、来た道を戻ってバンコクに向かいました。バンコクで、これからの旅の目標を南米にし、ブラジルを目指す決心をし、安い航空券を探すことにしました。結局、大韓航空でバンコク発、日本経由でロスアンゼルスまでの1年間のオープンチケットを7万円くらいで購入しました。まだ日本では格安航空券など販売していない時代なので、非常に安いことに驚きました。1973年の二月、再び日本に帰国しました。
海外放浪記37.船員編(1973年3月) 日本に滞在できる1年の間に南米に出かける資金を稼ぐことにしました。なぜ旅を続けるのかと言うと、それは旅の目的である:自分が人として生まれ、何の為に生きるのかを知ること、に対する答えが見つかっていなかったからです。ただ、タイにいる間にボンヤリと方向が見えてきてはおりました。手っ取り早い金稼ぎの手段として考えたのは船に乗ることで、三重県出身の友人が鳥羽に行けば船員募集情報が得られることを教えてくれ、早速出かけました。そこで見つかった仕事は、冷凍中積船の甲板員の仕事で、船は三重県の高城丸海運が所有する高城丸という千トンの船でした。早速、船が北洋から寄航する大阪の天保山で乗船することになりました。この時一緒に乗船したのは須磨君という高校卒業ホヤホヤの青年で、ど素人でも構わないということだったようです。船員など何の経験もありませんし、船に長期間乗船したこともありませんので、最初の一週間は激しい船酔いで、バケツを抱えてヘタっておりました。船の向け地は北洋で、春先の北洋は低気圧が発達して荒天が多いのですが、いくら荒天でも仕事があり、えらい世界に飛び込んでしまったものだと後悔しても、もはや手遅れでした。
海外放浪記38.船員編2(1973年4月) 私が乗船した船は、以前極洋捕鯨株式会社が所有していた冷凍中積船で、南氷洋で捕獲した鯨を捕鯨母船より日本に運航していたとのことでした。そのなごりとして船のメインマストには鯨見張台が残っており、若干操船の視界を狭めておりました。最初の航海の荷物は北洋捕鯨の母船からの冷凍鯨の積み込みでした。夜間でもライトを照らした母船にキャッチャーボートから鯨が引き渡されており、周りの海には鯨解体のお余りを求めてトドが沢山群れていました。トドは巨大な体でバオバオと大声をあげて傍若無人な振る舞いで、船の周りを泳ぎまわりますので、憎たらしいかぎりです。中積み船の作業はデッキクレーンで積み込まれるダンボールに入った鯨を、船倉の中にきっちり積み上げる仕事です。船が岸壁で荷役をする時は、陸から荷役人夫がきて陸揚げ作業をしますが、沖では船員が荷役人夫の役割をするわけで、船長以外は全員人夫役を勤めていました。船室は二段ベットの二人部屋ですが、船員が少ないので一人で使用しており、お風呂は海水をヒーターで温める海水風呂でした。
海外放浪記39.番外編(1972年3月~4月) 海外放浪記で日本帰国からタイに出国までの記憶があいまいでしたが、その部分の記憶をよみがえさせる事が最近ありました。それは社会保険庁からの年金に関する問い合わせの手紙で、1972年3月~4月の間に厚生年金に加入していたようだと言うのです。そこで思い出したのは名古屋港で働いた記憶です。日本帰国後、所持金も少ないので友達の伝で友人と一緒に名古屋に出かけ、沖仲仕の仕事をしました。主な仕事は車などの積み込みに際し、車を固定させるためにロープなどで繋ぎとめることでした。住居は住み込みの、たこ部屋みたいな所で、沢山の労働者が宿泊しておりました。ここで迷惑だったのは半端やくざみたいな男が、何かとちょっかいを出して、うるさく威張ることでした。二ヶ月くらいたって金が出来たので、そろそろ潮時と給料が出た日の夜に窓から夜逃げしました。その会社が、まさか我々に厚生年金をかけていたなど、夢にも思いもしませんので、社会保険庁からの知らせにビックリです。
海外放浪記40.船員編3=北洋(1973年5月) 北洋捕鯨での鯨肉の積み込みは一回だけで、その後はソ連のまき網船取った魚を洋上ですり身に加工するソ連船から冷凍すり身を受け取りました。ソ連の船には若い女性も乗り込んでおり、うらやましいなと日本の船員は指を加えて見ておりました。私と一緒に乗船した高卒の新米船員は最初の一航海だけでギブアップで、船が港に付いたとき両親が迎えにきておりました。その後、アラスカが見えるような海域で蟹を積んだり、北洋鮭鱒漁の刺し網で取れた鮭を二回ほど積みました、鮭は早い時期ほど値段の高い紅鮭が沢山取れ、その後は普通の白鮭ばかりなりました。洋上で積み込みが終わるとハッチを閉める前にハッチ口を封印し、積荷が抜き取られないようにします。でも私の乗った船には秘密の通路があったような記憶があります。乗組員の大半は三重県の鰹漁師だった人で、例外は無線の局長(北海道)、ベテラン水夫(青森)と私の三人でした。漁師あがりの船員は気の優しい人が多く、いじめられることもなく可愛がってもらいました。
海外放浪記41.船員編4=操船(1973年5月) 通常、船の操船は操船の専門家である操舵手(クオーターマスター)や航海士などが行いますが、私が乗船した船は乗組員が少ないので、新米甲板員(セーラー)である私にまで操船の役が回ってきました。船は目的地までノンストップですから、昼夜にわたり当直があります。一回の当直は4時間で、12時間の1/4ですからクオーターになりますので、操舵手のことをクオーターマスターと呼ぶようです。船は夜間、航海灯を点けて航行しますが、右舷と左舷には色のついた航海灯をつけて船の針路や向きなどを知らせております。右舷(スターボード)は緑、左舷(ポート)は赤で、赤球ポートワインと覚えろと教わりました。一番眠いのは午前4時から8時までの当直ですが、私は4-8の当直が好きでした。と言うのは深夜から徐々に夜明けを向かえ、段々海面が見えるようになり、ついに日の出を迎えるのですが、毎回水平線から太陽が顔を出すことに感動を覚えました。当直をワッチと言っていましたが、英語で言えばwatchであり、少しなまっているようでした。
海外放浪記42.船員編5=操船(1973年6月) 私は船長と汲んで当直をすることが多く、船長は船の位置の出し方などを教えてくれました。海図上の二点の位置と船との角度が分れば海図の交点が船の現在位置だと教えてもらい、コンパスで角度を読むのを手伝ったりしました。今はGPSで即座に位置が分りますが、当時、陸地から離れた場所ではロランで位置を計算するか最悪は六分儀で天測したこともありました。私は怖い思いをしたのは潮岬沖で船長と夜間当直をしていた時のことでした。船長は夜食のインスタントラーンを作るためにブリッジ(船橋)を離れており、私だけが操舵室で操船にあたっておりました。船が近づいてきましたが、どちらに交わせばよいのか迷っている間に相手が接近し、危険を知らせる為にサーチライトで本船を照らし、危うく交差して去って行きました。相手の船上でロシアの船員(ロシアの船でした。)がわめいていました。多分バカヤローとでも怒鳴っていたことでしょう。船長がラーメンどんぶりを持ってブリッジに戻ってきましたが、私は何くわぬ顔で何も報告しませんでした。でも、あぶなかったと後で脂汗でした。
海外放浪記43.船員編6=操船(1973年7月) 鰹釣り漁師上がりの船員が大多数の船は、時々鰹釣り本能が出てしまいます。船のコース周辺に鳥山を見つけると進路を鳥山に向け疑似餌を船尾から投げ入れます。更に鳥山に近づくと舟の速度を10ノット以下に落とさせて魚のヒットを待つのですが、普通の商船では考えられない行動です。魚がヒットすると早速引き上げる所までは分るのですが、取れたばかりの鰹の目玉を指でほじくりだしてペロリと生で食べるのには驚かされました。取れた鰹は早速タタキとなって夕食に出てきます。また南方を航海する時、船のコックの毎朝の日課は甲板を見回って船に飛び込んできたトビウオの回収で、それも焼き魚として朝食に出てきます。海が時化ていない時、日中には甲板員の作業があります。メインの仕事はワイヤロープを切断し、先端を円形に加工するスリング作りです。加工する道具はスパイキという鋼鉄の丸棒にテーパーをつけて尖らせたものです。揺れる船上での、ワイヤとの格闘も今となれば懐かしい思い出です。
海外放浪記44.船員編7=台風(1973年8月) 海上は風をさえぎるものが何もありませんので、感じとして陸上の倍の風が吹き、一旦海が荒れると簡単には収まりません。強風に耐えるためには、船はある程度積荷があった方が安定します。しかし、積荷を満載した状態で強風にあいますと、小さな船は大波に飲まれて潜水艦みたいな状態になります。8月下旬、中国に向けて航海している時に台風に出会いました。速力の遅い船でしたから、台風が来るとわかっていても逃げ切れません。丁度、沖縄を通過して台湾に近かったので、台風からの西風を避ける為に台湾の東海岸沿いを航海しました。大波の中での航海の場合、船を波に対して45度の角度で船を走らせます。波を真正面から受けますと波の谷間に落ちてしまい船が持ち上げられてからドスンと落とされますので、船は胴震をして船体が割れてしまうような恐怖に襲われます。しかし波に対して45度の進路を進みますと、進みたい方向からずれてしまいますので、時々方向転換の必要があり、その時が危険です。船は運悪く空荷でしたから、大きな波に乗ったあとはエレベーターで降りるような感じのあと波底に落とされ、食堂では壁の棚に収納されたお皿が放り出されて床に散乱する有様でした。生きた心地のしない航海が一週間も続き、もう船には乗りたくないなと思わされました。
海外放浪記45.船員編8=中国入港(1973年9月) 本来、台湾を沖縄よりの航路で抜けて中国を目指すはずが、台風の風を避ける為の針路を進んだために、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡を抜けて東シナ海に入ることになりました。このバシー海峡は第二次大戦中、沢山の日本商船などが撃沈された海峡ということで黒々とした海は何か不気味は感じがしました。そしていよいよ最初の中国入港の港であるアモイに到着しました。アモイは入港時に大きな岩があったことが印象に残っております。私が入港した時は、まだ日中国交正常化が図られる以前であり、人々は真っ赤な小さな手帳を振りながら我々の入港を歓迎してくれました。真っ赤な小さな手帳は毛語録でした。アモイ市が歓迎会を開催してくれましたが、今は何も記憶しておりません。人々は薄緑の人民服を着て、豊そうには見えませんでしたが、アモイは風光明媚な港町であり、そこで暮ら住民は明るい印象でした。
海外放浪記46.船員編9=座礁(1973年9月) アモイの次に向かったには杭州です。中国の港は海岸沿いにあるものと、川をさかのぼった所にあるものに分かれますが、杭州は川をさかのぼった所にある港です。パイロットとの待ち合わせ場所に行くために川をさかのぼっているとき、船は浅瀬に乗り上げて動かなくなってしまいました。座礁です。幾らフルスロットルで後進・前進をかけても泥の上から動かないことが分り、諦めて満潮になるのを待つことにしました。運よく1時間くらいしたら潮が満ちてきて水位が上がったので再度トライしたところ、船は浅瀬を脱出することができました。本来、このような座礁は航海日誌に記載しなければならないのですが、船長は、これはなかったことにしようと記載をしませんでした。やがてパイロットと出会い、港にむかって川をさかのぼることになりましたが、英語がしっかり話せる船員は私しかいないので、私が船の舵を握ってパイロットの指示により操船することになりました。インチキにわか操舵手の私の操船で船は無事に港に着岸できましたので、船長から褒めてもらいましたが、冷や汗物でした。
海外放浪記47.船員編10=青島、天津(1973年10月) 杭州の次に向かったのは青島(チンタオ)です。青島は中国の港の中では珍しく深度が深いので昔から軍港として利用されていたようです。当時も軍港でしたので、入港前に入港しても港をカメラで撮影しないように注意されました。注意されると逆に写真を撮りたくなるもので、船室の窓越しに港に停泊していた潜水艦を撮りました。潜水艦と言っても小型の古いものでした。青島から渤海を渡って天津に向かいました。渤海は黄河からの濁った水が注いでいるせいだと思いますが、灰色に濁っており、殺風景な海です。天津は渤海に面しており、ここでは甘栗を積み込みました。甘栗はドンゴロスにつめられており、一袋が100Kgくらいあり、これを現地の荷役人夫が軽々と担いでしまいます。狭い足場を半裸の人夫が夜間に体から湯気を出しながら上がってくる姿は圧倒的で、その馬力に圧倒され、小説で読んだ苦力のイメージが浮かびました。中国人といっても、北と南では体格や力、さらに性格も全然違うようでした。南船北馬といいますが、北は体格も力も格段に南に勝っており、人種が異なるのだということを実感しました。
海外放浪記48.船員編11(1973年10月) 中国からの帰国のころは、丁度秋の名月のシーズンでした。夜の当直でブリッジに立つとき、月の光に輝く海面を船が静かに波を砕いて進むさまは、まるで異次元のおとぎの国にいるようで、しばし忘我の世界に浸ってしまいました。今でも船員生活を思うとき、海と空と雲がおりなす大自然の摩訶不思議な美しさを体験できたことが、得難い経験だと思います。私は長野の田舎で育ったので、自然の美しさは沢山見てきましたが、海の場合は自然との距離が非常に近く、その迫力、壮大さに圧倒されてしまいました。大自然に圧倒されていると、その思いは自ずと自然や宇宙と人間との関係、そしてあまりにも小さな自分の存在に向かいます。そして嬉しいことに、自分の存在意義を知りたいと思って続けている旅の先行きに、何となく道が見えてきているようにも感じました。昼間の航海では、時々イルカがしばし旅の友をしてくれますし、一度などは大きなジンベイ鮫が船の直ぐ側に現れてビックリさせられました。中国から帰国すると船会社の別の船が中国に行くことになり、私が中国に行くときは役立つということで、別の船を乗り換えることになり、船会社のある三重県から鳥取の境港まで別の船に乗り込むために出かけました。ところが大チョンボがありました。船会社は私に船員手帳を渡すことを忘れてしまったのです。船員手帳は旅行者のパスポートにあたりますので、折角鳥取まで出かけましたが、空振りとなり、また三重県に逆戻りとなってしまいました。
海外放浪記49.船員編12=訃報(1973年10月) 船の入港を待って再び船に乗り込みました。今度の航海先はインドのゴアまでとのことで珍しい土地への長期航海に心が躍るようでした。丁度船が熊野灘にさしかかるころに船長から電報が入ったとの知らせがありました。三歳年上の兄がゴルフ場の造成工事現場で、乗っていたジープが路肩を踏み外して転落し、助手席の兄が死亡したとの知らせでした。丁度三重県からも離れていないので、下船するなら会社から小船を呼ぶことが出来るが、どうするかとのことでした。迷いましたが、危篤ということであれば、何が何でも帰るところですが、既に死亡しているのであれば、インドからの航海後に田舎に帰るので、下船はしないと伝えました。兄は工業高校卒業後、大阪の大手建設会社に入社して土木工事の仕事をしておりましたが、下っ端で働くのは面白くないと独立し、ブルドーザーを購入し、一匹狼で工事現場を渡り歩いておりました。本当は機械いじりが大好きなので機械関係の仕事をしたかったのですが、高校の入試で先生に機械科だと不合格になるかもと言われ、やむなく土木の道を選んだのですが、大好きな機械も扱えるということで、ブルドーザーのオペレーターの道を選んだようでした。兄とは年も近いので小さいころから、いつも泣かされ、いつか大きくなったらやっつけてやるなどと思っていたこともありますが、一番身近な存在でしたので、兄弟を亡くしたことの意味も分らず、人生のはかなさに驚かされました。暗い海面を見ながら惜別の涙が止まりませんでした。
海外放浪記50.船員編13=インド航海(1973年11月) 千トンの高城丸でインドに向かいましたが、オンボロ中古船ですからスピードは13ノット程度で、時速にすれば20Kmくらいのノロノロ航海で、インドのゴアを目指しました。シンガポールを越え、インド洋に入りましたが、インド洋と太平洋は同じ海なのですが、海の色が何か暗く感じ、何となく不安な思いがしました。目的地のゴアに近づくと、木造の小船が沢山集まってきました。目的は税関を通らない洋酒を売るためで、船員はお土産用に沢山買いこんでいました。荷役が始まりましたが、作業員が船の備品を盗む可能性が大きいので、舷門当直を立てなければなりませんでした。それでも私の愛用の毛糸の帽子などを盗られてしまいました。荷役で面白かったのは荷を降ろせの合図が「アリャ」という言葉だったことで、私たちはアリャアリャと囃したものでした。積荷は冷凍のエビだったと思いますが、のんびり作業するので、中国と比べると、えらく時間がかかりました。船をおりて上陸するのは危険ということで、船を離れることもなく積み込みが終わるのを待って日本に向かいました。日本近海に近づき、三重県沖に来たとき、船会社の小船がやってきました。その時、何を降ろしたかは誰にでも分るものですが、可愛い密輸でした。
海外放浪記51. 最後の旅(1974年1月) タイで買った大韓航空のタイ発、東京経由ロスアンゼルス行きのオープンチケットを使用するため、1月の半ば過ぎに船から下船しました。今度の旅の目的地をブラジルとしておりましたが、十ヶ月を超える船員生活で色々なものの見方が大分変わり、旅に出かける意欲が若干薄れておりました。しかし自分が旅をすることの目的とした、何のために生きるかについては、まだボンヤリと見えてきた程度であり、一旦決心したことでもあり、自分を奮い立たせて出発することにしました。今回は船員生活でしっかり稼いだので十分な蓄えを持っての旅です。まず家に帰って家族に別れを告げることにしました。今回の旅は二度と再び親にも会えなくなるかもしれないと、何か悲壮感を感じさせるもので、それを家族も直ぐに感じたようで、何か水杯の分かれのような感じになってしまいました。親父は何も言いませんでしたが、母は泣いて旅を断念するように言うので、私も酷く辛い思いをしました。出発の朝、母は甥を背負いながら雪のちらつく中を泣きながら、何時までも手を振って見送ってくれました。何か、とめてくれるなおっかさん、みたいな心境で、とても親不孝な自分が悲しくなりました。大学の同期は既に社会人になって働いているのに、またバックパックを担いで旅に出発です。
海外放浪記52. 最後の旅(1974年2月) 米国への入国審査をハワイで受け、ロスアンゼルスに到着しましたが、ロスに長居をするつもりもありませんので、メキシコに向け早々に出発することにしました。今回は目的地がはっきりしており、時間をかけてヒッチハイクするような気分でもなかったので、大陸間を横断しているグレーハウンドバスの乗り場に向かいました。バス乗り場にいるのはほとんどスベイン系、あるいは黒人系ばかりで、早速フェニックスを経由してメキシコ国境に向かいました。シウダードファレスで国境を越えメキシコに入国です。今回の旅のためにスペイン語の入門ブックを購入し、時間がある時に勉強してきましたが、挨拶と数字を言える程度にしか到達しませでした。40年が経過してメキシコの旅で記憶しているのは、多分チワワで宿泊した時だと思うのですが、夜になり町に出てビールを飲みブラブラしていたら、少しからまれたので、腰にさしていたナイフに手をやったところ、騒ぎになり警察署につれていかれ、油を絞られたことです。護身用にナイフを持つのは良いでしょうが、腰にぶら下げているなどということは、逆に危険ないことだと教えられまた。旅先で酔ってトラブルを起こすなど愚の骨頂ですが、何か心が落ち着かずにイライラしていたようでした。それからメキシコシティーに向かいました。
海外放浪記53. 最後の旅(1974年2月)メキシコシティ ここに一枚の写真があります。これは私がメキシコシティに到着した後、市内の公園でオートマチックで自分を撮影したものです。黒のベレー帽をかぶり、ジーンズの上下を着て寂しげな顔をした青年がいます。ベレー帽はゲバラに憧れていた私がゲバラを真似てかぶっていたものです。メキシコについてから体調がおかしくなりました。それは毎朝起きると呼吸困難な状況になるのです。最初はメキシコが高地にあるので、そのせいかと考えていたのですが、どうも違うようです。そして、呼吸困難になるのは、自分の将来を考えた時の不安が原因であることが分かってきました。当時私は25歳でした。25歳になり家族とも二度と会えない覚悟で旅に出ましたが、大学の同期は既に社会人になっているのに、今さら背中にバックパックを背負って旅をし、何のあてもないブラジルに行って何をするのか?もしブラジルに知り合いなどがいて、何らかのあてがあれば、何の躊躇いもなく旅を続けたでしょうが、全然あてがありませんでした。未来に対する言いしれぬ不安に心が押し潰され、その心理的ストレスにより呼吸困難になったのです。数日が経過し、状況が変化しない中で、自分はゲバラのように家族を捨て、夢に賭けることが出来ないという自分の限界を知りました。でも今考えてみるとゲバラには夢がありましたが、私にはただ旅をすることが目的になってしまい、夢がなかったことが自分を追い込んでしまったのだということがわかります。ともかく旅の継続が困難であることを自覚し、ギブアップ宣言を自分に出したところ、たちまちのうちに呼困難が解消してしまいました。
BCC-421:海外放浪記54. 最後の旅(1974年2月)帰国 ようやく旅を続けなければならないと言う呪縛から開放され、メキシコから日本 に早速帰ることにしました。船員生活で稼いだお金がありましたし、悠長に貧乏 旅行をする気にもなれず、JALの支店を探してサンフランシスコ経由で日本に 帰る航空券を買いました。サンフランシスコには、日本で知り合いになった香港 の大学生が留学しておりましたので、その方に会うために寄り道をしました。日 本を1月に出発し、まさか一ヶ月もしないで帰国しようとは夢にも思いませんで した。飛行機が東京に近づき富士山を見たとき、何か熱いものがこみ上げてきて、 自分はこれから日本人としての誇りを持ち、日本を愛し日本で生きるのだという ことが自覚され、何か晴れ晴れとした気持ちで帰国しました。富士山には不思議 な力がありますね。 日本に帰国してから40年ほどが過ぎ、あの日本人としての誇りをもって生きる と言う熱い思いが最近は薄れているように感じますが、もう一度原点に戻り、こ れからの人生を生きて行きたいなと思います。これで海外放浪記を終わりにさせて頂 きます。
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