ザ・TSUMANI・サバイバー 〜恩返しへのプロローグ〜

 

<25日14時>

炎天下の線路を大きな旅行カバンを引き引き、難民のように歩いていた。

コロンボColomboの南、およそ20km。目的地のヒッカドゥワHikkaduwaまでは遠い。

クリスマスと年末休暇が重なった25日、列車は現地の帰省の人たちで満杯。

特急の一等車を買ったものの満杯特急に「ぶら下がる」ことはできず、

2時間遅れの各駅停車でかろうじて南下を始めた。特急一等でも50円じゃ怒る気にもなれない。

膝にのせてあげた現地の子供がかわいい。ほとんどが家族連れの帰省客だった。

各駅ごと増える乗客の重荷で牽引車のディーゼルがとうとう起動不可になった。

膝にのせた子の親父から、こっちだ、と言われるまま、線路を次の駅まで歩いている。

年末満杯列車のエンコは毎年のこと、のようだ。

親子はヒッカドゥワの手前、ベントータBentotaに帰省とのこと。

列車をいくつか乗り継いでBentotaについたときには何故か、Colomboの列車だった。

大きな黒い目の子に日本ミヤゲの「無事帰る」の蛙のお守りをあげた。

Bentota駅の階段で親子といつまでも手をふり別れたが、彼らは生きてるだろうか。

そう、Bentotaも我々家族の目的地Hikkaduwaも翌日は波でざっくりえぐられ街は壊滅したのだ。

<25日23時>

その晩は満月だった。Hikkaduwaの渚で「昨日も産卵があったから、深夜、見に来るといいよ」と現地のヒト。

夕食後の深夜、ビーチで海亀を待った。おもえばこのとき波が来たら、家族全員オダブツ。

しかも、わたしは深夜に数回か渚に降りた。オダブツ確率は倍増だったのに呑気なものだ。

海亀は危険を予知したのか満月が西に傾いても一匹も現れなかった。明るい月光で星座も見えない。

 

<26日06時>

早起きなわたしは、翌朝も6時開始の朝食をすぐにいただき、周囲を一回りした。

ホテルはHotel Lanka Super Corals。

http://asiahotels.net/srilankahotels/hikkaduwa/super-corals/index.php3

旅行中たいていはサッカーボールをもっていく。

昨日、豪華ロブスターなどクリスマス特別料理を食ったホテルフランシス、駄菓子屋のようなネットカフェ、

牛を放し飼いにしている広場など、ボールを蹴飛ばせる場所を物色したが、適当な場所がない。

しょうがないから泳ぐか。。とホテルに戻ってシャワーを浴びているとようやく家族も起き出した。

部屋は2階と4階の二部屋。4階の部屋がのちに重要となる。

<26日08時−09時>

バイキング形式の朝食。二回も珈琲を飲むのは気が引けたが、家族と今日の予定を語る。

とりあえずは熱帯魚だ。

だが、しばらく食休み。それから海に来い、と家族に。こっちはビーチでボールでも蹴飛ばして待っているから、、。

波がきついので食べた直後の水泳はまずい、とおもったのだが、家族を救う指示だった。。

部屋に戻ったが、ボールをもっていくのも面倒だ、と思い直し、

プールかビーチで待ってるから、と告げ、家族のシュノーケルやゴーグルを持ちひとりで渚へ。

 

<26日09時30−45分>

Hikkaduwaの波は比較的きつい。波に巻き込まれないようリーフの外れにエントリーする場所をしばらく物色。

やばい選択をすると、子供も大人も波にまかれ、リーフの深みあたりの珊瑚に激突し全身傷だらけになる。

投宿ホテル南側に同じクラスの安ホテルがあり、その前のビーチの波が多少は小さい。

波打ち際を歩いていく。さて、リーフのはずれまで泳いで家族でも安全か確かめるか。。とおもって

ゴーグルをかけなおす、と、なぜか水位がこころなしか上がっている。

あれれ。。そのうち渚にある高さ2mの壁の高さに自分が居るのに気がついた。。

あれれ、なんだなんだ。ビーチがなくなってる。。

 

<26日09時45−50分>

Hikkaduwaへの波は、スリランカ南端のマータラMatara、ゴールGalleを迂回し、まわりこんだ波なので

多少は減衰しただろう。それでもとんでもないエネルギーの波だ。

第一波は比較的小さかった。とはいえ、もとの渚レベルからは3mはあった。

しかし、その波には、わたしの命を救うものが宿っていた。

第一波で隣のホテルのボートハウスにいざなわれ、壁と壁で山側海側はさまれた空間に流し込まれたのだ。

四つんばい状態でボートの舳先が目に入る。その直後、強烈な第二波に襲われた。

はさまれた空間は、巨大洗濯機の中にいるような攪拌きりもみ状態。

ドスン、バコ、といった具合にシリで一度、顔面に第二の衝撃を受けた。

たぶん山側の壁、海側の壁にぶつかったのだろう。

ぶつかったおかげで、木の枝やら瓦礫やら割れたガラスやらのdebrisと一緒に

波にまかれ、全身傷だらけで引きずりまわされることから免れた。

壁に挟まれていたので、強烈な引き、で沖合いに引きずられることもなかった。

波にまかれたとき無意識に受身体制をとったのか、頭蓋骨や肋骨に致命傷を受けることも免れた。

いずれにせよ第一波とそのときの位置が、わたしの命を救った。

運、は時間の関数である。今回は秒か分のオーダでビーチの位置。

ディのオーダで、日程で命拾いした。翌々日は東側のヤーラYala動物公園でサファリ。

消滅したビーチサイドホテルロッジに予約済みであった。

当初Colomboから国内空路でYala付近に直行。そしてビーチサイドホテルロッジで2,3日。

東側のYalaから南回りでHikkaduwa泊を経てColomboに戻る、という日程も検討していた。

その場合、どうなっていたことか。国内定期空路がなく、

ヘリか小型機チャータということだったので、そのコースはあきらめたのだが。

ヤーラで日本人が6−7人亡くなっている。ご冥福を祈る。

 

<26日10時ごろ>

ボートハウスのシェルターで命拾いをしたわたしは顔面の出血に気がつき、だれかの手助けを求め、

隣の安ホテルの茶色に変色したプールサイドに向かう。ヘルプミー。アイムインジャード。

ホテルマンらしいヒトとユーロピアンが気づいて振り向いたが、困惑動転した表情。

そのときは2、3の高波がきただけ、と思っていたのだが、次の波でそのホテルの1階レストランのガラスが粉々に砕けた。

こりゃひどい。サンダルを一方波にさらわれ、シリも痛いが、片足ケンケンで安ホテル一階、水浸しフロントを通過。

右足ウラをガラスが切り裂いたがそんなことはかまってられない。

山側の玄関から出て、ガレロードGalle Road沿いのホテルの塀によじ登る。

塀の上で隣り合わせたユーロピアンの若夫婦のダンナが日本語を話す。

ツナーミ、ツナーミ。津波って意外と国際語だ。

ちょっと広めの路地といった感じのガレロードGalle Roadは、Colomboと南端のGalleを結ぶ動脈である。

それが河になっている。そして流れている。ビーチデッキ、デスク、やしの木、建材、破壊された漁船、自動車までも。

全てを押し流している。

いい天気なので流れに反射した太陽がまぶしい。白日夢とはこのことだろうか。

何人かの悲鳴が聞こえる。嗚咽の声も。子供が流されたかのか。押しつぶされたのか。

わが子を悼む母の鳴き声と聞こえる。

一体原因はなんだ?海底陥没か隆起。それもスリランカ直近のだろう。

ユーロピアンの若夫婦のダンナがインドネシアの地震の津波だと言う。

このときははるばるとインドネシアから来た波だとは信じがたかった。

しばしホテルの塀で様子見をしていた。Galle Roadの河の水位が下がってきたので塀から降りる。

シリが痛いので無理な体勢で降りたので左腕に擦り傷をつくる。この傷は化膿させてしまいしばらく傷んだ。

 

<26日10時30ごろ>

片足ケンケン状態で少しずつ投宿ホテルの方へ移動。ちょうど4階から降りてきた家族と再会する。

部屋に居る確信があったが、やはり出会って安心した。

家族側は遺体捜索を覚悟していたようだ。案外すんなり出てきたのであっけにとられていた。

とにかく予備の眼鏡をもってこい。次男に指示する。わかった、行って来る。

幸いにも海で眼鏡を波にさらわれた経験があったのでレンズ傷だらけだが予備眼鏡はあった。

その後しばらくレンズ傷だらけのおかげで視力が悪化したが、あるだけよかった。

ホテルの玄関から一階はガラスで一杯。目が悪いと危険きわまりない。

ドスン、バコ。のドスンのほうのシリが痛む。学生時代プールの階段でシリモチして尾てい骨にヒビ、をやったが、

その症状と同じだ。一方、ドスン、バコ。のバコのほうの顔面出血は意外と軽症だった。

炎天下でバンドエイドだけで止血。打ち所はかなりよかったようだ。

 

<26日昼から夕刻>

電気無し。電話不通。2階の部屋は水も出ない。幸いにも4階の部屋の水は出る。

一時4階の部屋をユーロピアンに占拠されたが文句を言って追い出した。むこうも家族連れ。

とはいえ、こっちも必死である。2,3日の足止め、もありえるので水の確保は死活問題。

なぜか無人の4階の部屋がロックされたままだった。全室開放しないのは動転しているのか気が利かないのか。

少なくとも無人の隣室は海側のテラスからガラスをたたき割れば入室は可能だった。

ホテルマンにそのことを言ったのだが。

オートロックでない部屋にきちんと鍵をかけて出て行った隣人も信じがたい。

リゾートが地獄に一変したから皆異常だった。

だが、共同での夕食、共同での朝食、蝋燭や蚊取り線香などはホテルの配慮が行き届いていた。

その後も身にしみたが、スリランカンは浪花節的人種である。仏教国なので日本人と通じ合うところが多い。

 

<26日夜>

震源の悪魔も遠慮したのか、午前の明るい時刻に勃発、が大惨事中の小さな幸い、というべきか。

しかしその後の地獄は長かった。夕刻から暗くなるとホテルは蝋燭の火にたよるしかない。

水もわずかしか出ない。暑さと漆黒の闇。闇の中からヒトを襲う血に飢えた無数の蚊の群。

長男は100箇所も血を吸われ一睡もできず、精神的にまいっていた。

地獄からの脱出はいつになるのか、この時点では不安しかなかった。

 

<27日朝>

翌日朝、シリを押さえつつ階下で情報収集。

ガレロードGalle Roadを歩いている東洋人に声をかける。一人は寺院に非難していたことを告げ自分のことが

精一杯、とそそくさと去る。もう一人はColombo在住で携帯電話をもっていた。

スリランカの友人と日本大使館への連絡を頼む。すぐ傍の日本人ビラに居るとのことで、なにかあったら来てくれ、とのこと。

若いのに頼もしくありがたかった。彼はGalle Roadをとぼとぼ歩いて行った。そのGalle Roadを通る車はほとんどない。

 

もう一泊待機、が現実的になってきたので、さらに階下で携帯をもつヒトに強引に話しかける。

Colombo在住邦人のときと同様、二回線ある日本大使館は接続できない。何度か日本大使館への連絡を頼んでいると

その携帯をもつ現地の初老のヒトが、Colomboに戻る車を手配するからお前ら家族もどうだ。と言ってきた。断る理由もない。

すぐさま荷造りする、と答えた。その時わかったが、携帯をもつ初老のヒトは、投宿ホテルのマネジャーだった。

ホテルマネジャーは、家族4人とドイツ人4人、その荷物を2台のランクルに載せ、運転手と一緒にColomboまで送る、という。

こんな事態に面倒見がよい。自分のホテルが壊滅状態なのに。

 

<27日昼>

予定通り正午に出発。途中でホテルのオーナの家でも状況報告した。

同行したドイツ人は妙に明るいやつで、ベルリンのホテルオーナとかいっていた。

壊滅ホテルのオーナに改築を手伝うとか大声でアピール。こんなときなのに名刺交換なんかしてる。

そんなことを思ったが、ようやく地獄からの生還の可能性を実感した時だった。

正午に出発したが、スリランカの友人はその後二時間遅れてホテルに来てくれていた。なんと前の晩も来ていたのだ。

しかし、到着したのが電気のない漆黒の夜。ホテルの場所すらわからない。ホテルがわかってもどの部屋にいるのかもわからない。

深夜Colomboに引き返し、とんぼ返りしてまた来てくれていたのだ。その友人とはその夜Colomboでようやく握手することになる。

海際のGalle Roadは壊滅分断状態。

山周りの迂回コースで、Hikkaduwaとご両親の住むGalleColomboを友人は二回往復していたのだ。

Galleに在住のご両親は丘の上なので生存。ただし電気水道有線通信はなし。

現在も、Galleへの飲料水と食料ピストン輸送、そして行方不明の友達を探して往復している。

 

<27日夕刻まで>

山道はひび割れ尾てい骨にはきつい。拷問振動に必死で耐えている。

ガソリン不足も大問題。途中何度もガスステーションをもとめて街をぐるぐるまわった。

渋滞で動かないことも多かったが少し、また少し確実にColomboに近づいている、という希望の支えがあった。

しかし、今日中に着くのだろうか。宝石採掘の街ラテゥナプラRatnapuraあたりで車中泊か。

休憩地点。水を買い求めようとするがない。困った。ノープロブレム!うしろから大声がした。

これ、おまえらにやるから、とソーダのリットルボトルをドイツ人が二本もくれた。

あーこいつ、ホントにいいヤツだなー、ドイツ人でここまで陽気なヤツも見たことがない。

車中でそのソーダリットル瓶をあけ、ぬるいソーダをぶちまけてしまっても

コングラチュ−レーション、と一緒に騒いだ。このころようやく生還できる、という余裕が出てきた。

車窓にムーンストーン採掘場の看板が見える。しかしまだ行程の半分。これから進路を山から海に向ける。

海から山へ向かう非難のバイクには遺体を載せそれを山側寺院に運んでいるのも多かったのではないだろうか。

そのためフラフラ運転。それをクラクションで蹴散らしながら進んだ。気の毒である。申し訳なかった。

 

<27日夜>

赤信号が見える。We see red-stop here! 電気のある場所に入ったのだ。

しかしその赤信号がらCityセンターまでが長かった。

ドイツ人は携帯電話を持っていたので、国際会議場が非難してきたユーロピアン用の仮宿であることを知っていた。

それが邦人向けの避難場所でもあったのかどうかわからない。しかし国際会議場の仮宿スペースは満杯だった。

ラマダホテルにいけばなんとかなりそうだ、とのことで着いたのがラマダではなく、タージTajホテルというインド系の最高級ホテル。

フロントでなんとか仮宿させろ、とドイツ人と交渉する。20時。

どうもこの頃、スリランカ当局の指示がでたようだ。

Colombo市内のTaj、Plaza、Hiltonなど大きな5つのホテルを避難民仮宿のために融通開放する。

投宿ホテルのマネジャーもしきりに携帯電話で電話していた。観光協会などを経由して当局を動かしたらしい。

感謝である。Tajホテルは豪華絢爛。別棟の宴会場も大きな建物である。この宴会建物全部を難民に開放。

効きすぎて寒いくらいの冷房をかけたシャンデリアのある大部屋何室かに悠々とマットレスを敷いてくれた。

次男はその部屋が気に入ったようだ。シャンデリアの下で眠るのはわたしでも初めての経験。

シャワーこそなかったがデザートつきのうまい夕食にもありついた。

家族が食事中に三輪車Three Wheelerで友人の家に無事を知らせに行く。

娘のNangiと奥さんが目を真赤にして喜んでくれた。まさに死地からの生還。

携帯電話で息子Belishが友人である彼の父親につなぐ。21時。

友人はHikkaduwaGalleを回り、我々同様山周りでColomboへの帰路。雑音だらけの中、電話で無事を喜び合った。

 

<27日深夜>

深夜に呼ぶ声で目覚める。Colomboに到着した友人の手が伸びている。シャンデリアの下での握手。

無事だった。よかった。ほの暗いシャンデリアの照明で、くしゃくしゃの顔がぼんやり見える。

しかし、昨日とうって変わって冷房で寒すぎた。宴会場のカーテンやらそこらのゾーキンをかきあつめ、くるまって寝た。

 

<遠く離れた今のエピローグ>

現地のミネラルウォータペットボトル。それが冷蔵庫に眠っている。

必死で買い求め、ずっと手元においてきた非常飲料である。

当時を今に伝えるこのボトル。これでも救われるかもしれない、か細い命。

それが今も苦しみにもがいている。

元気で生還できたのはスリランカンの好意と温情による所が多い。

遠く離れた今のエピローグ。これはロングランの恩返しへのプロローグである。

 

2005.01.12